○○離れ、つまり、関係性の変化(本当は成熟といいたいところだが)による距離感の再調整は、いろいろな場面で要求される。親子、夫婦はもちろん、医師と患者の関係においても同様である。
「自分が居なければ○○はどうなる」という煩悩から如何に抜け出るか?以下、「自分が発言しなければ・行動しなければ、日本の医療はどうなる?」という愚かな妄想に囚われているほど馬鹿でない人向けの処方箋である。
「自分が居なければ○○はどうなる」→「思い上がりも甚だしい」 で止まってしまうと、もったいない。「自分は馬鹿だ」と思ったら、そこで止まらない。そこはむしろチャンスだ。「自分は馬鹿だ」と思ったら、そこですかさず、「馬鹿と鋏は使いよう」というツッコミを入れることで「馬鹿な自分」を資源として有効利用しようとする気になれる。具体的には下記のようになる。
「自分が居なければ○○はどうなる」→そんなに心配ならば→「自分が居なけくても○○が何とかやっていける」ようにしたらどうか?→一時的に自分が居ない状態にして○○に任せてみる あるいは、自分に代わって○○の世話をする××に任せてみる=権限委譲という重要な教育法の一つ を繰り返して○○や××が育っていくのを見守る→ついには「自分が居なくても○○は立派にやっていける」→○○をそこまで育てた自分の自己評価が高まる
「自分が居なければ○○はどうなる」という「思い上がり」も、このように使うと資源の有効利用となる。
参考→お払い箱を夢見て