専門家の没落
―ハイデッガー再び―


やはり新型コロナが流行したことにはそれなりの理由があった。なぜなら『専門家の没落』が読まれたという事実は、専門家たちが確かに「没落」の感覚を持っていることのしるしであるから。
そこからハイデッガーは次のように考えを進めていくのである。

―専門家たちはいま自分たちの役割を探している。いや、というよりも、専門家たちはいま自分たちに何か役割を与えざるを得ない。

―しかしそれはいったいどういうことだろう。専門家たちは、自分たちで自分たちにわざわざ役割を与えなければならないほど軽い存在になってしまったのだろうか?もし専門家たち自身が専門家たちにとって重要な存在であるのなら、わざわざ自分たちの役割を探し当てねばならないなどということにはならないだろうから。

―どうしてそんなことになってしまったのか?なぜ専門家たちは自分たちの意味や可能性を見いだせないのか?これではまるで、あらゆる市民が専門家たちに無関心になって、大きなアクビを吹きかけているかのようではないか。

―何にせよ、専門家たちは自分たちのために一つの役割を探している。「これこそが私のなすべきことだ」と言える何かを探している。

―言い換えれば、専門家たちは、自分たちを自分たちにとって再び興味あるもののようにしようとしている。自分たちが自分たちにもっと関心を持てるようになろうとしている。

―だが、ここには何かおかしなことがありはしないか?なぜそんなことをしなければならないのだろうか?

―もしかしたら、専門家たち自身がいま、(市民にとってだけでなく)自分たちにとっても退屈になってしまっているのではないか?だから何とかして自分たちを自分たちにとって興味あるものにしようとしているのではないか?

―しかし、人間が自分自身にとって退屈になってしまっているなどということがあり得るのだろうか?なぜそんなことになってしまったのだろうか?

 こうしてハイデッガーは次のように言うに至るのだ。結局、ある種の深い退屈が専門家の深淵において物言わぬ霧のように去来している

 何も言わない霧のように、いつの間にやら退屈がただよってきて、専門家たちの周囲を覆い尽くしている・・・・・。ハイデッガーが抱いていたのはそんなイメージである。そして、この退屈こそが専門家たちにとっての根本的な気分であるとハイデッガーは言うのだ。つまり、専門家たちは退屈の中から哲学する他ない、と。

 こうして退屈についての長い論究が始まっていく。

國分功一郎 暇と退屈の論理学 新潮文庫 P235-237より 一部改変)

松岡正剛の千夜千冊
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