臨床推論とは何ぞや

先日,香川大学の学生さんに講義を頼まれた.御題は「臨床推論とは何ぞや」

元来,臨床は推論の積み重ねである
臨床は推論の連続であり,我々はいつもわからないことだらけの中で仕事をしている.臨床では「わかった」と思った先に必ず落とし穴が待っている.落とし穴に落ちないのは,この先に何があるかわからないという臆病風のおかげであって,その臆病風が吹かなくなった途端に落とし穴に落ちる.自分のやっているのはあくまで推論に過ぎない.その緊張を切らずにいて初めて患者さんの笑顔が見られる.そういう文化は臨床の空気「だったはずだ」 

だから「臨床推論」(clinical reasoningの和訳だろう)という言葉は,空気のありがたさを意識しましょうというキャンペーンを同じぐらい,私にとっては奇妙な感じのする言葉である.臨床推論なんて言葉が出てきたのはいつのことなのだろうか?少なくとも毎度不勉強な私にとっては,ここ数年,私が2011年にNHKに出演してから以後のことのように思える.それ以前に,臨床推論という言葉が無くて困ったという記憶は全く無いし,臨床推論という言葉が出てきて以後,何かが便利になったという記憶も無い.私の診療スタイルも全く変わっていない.とすると,臨床推論という言葉が出現する前から,臨床推論の概念は存在し,臨床推論の考え方に基いて診療することは,至極当たり前に行われていたと考えるのが妥当だろう.実際臨床は推論の連続だ.臨床推論なる言葉がもてはやされるようになっとすればは,至極当たり前のことが当たり前でなくなってしまったためではないのか?

臨床推論という言葉が生まれた背景
一方で,私が医学部に入る前から,臨床が推論の連続であることを否定するかのような教育が行われてきたことも事実である.それは,「医学は時代とともに発展し,わからないことがどんどんわかるわかるようになる」「新しい薬,新しい検査は全て古い薬,古い検査よりも,あらゆる点において優れている」といった,根拠無き信仰である.遺伝子診断や高度な画像診断といった「最新医療」のおかげで,正解が手軽に得られるようになった。そんな幻覚妄想状態が,素人衆の間だけでぐるぐる回って感染していたものが,ついには医者にも感染するようになった そういうことではないのか?→火星の医学 

このような信仰の下,最終診断が膨大な検査データとともに提示され,retrospectiveに,つまり後出しじゃんけんで,すべて最初から診断がわかっていたように臨床が論じられる.そうして,最終診断に行き着くまでに生まれた膨大な数の迷い,悩み,疑問は全て忘却の彼方へ押しやられる.臨床は推論の連続であるという史実が消去され,どんなありきたりの症状を示す患者が来ても,たちどころに特異的な免疫検査によって診断を絞り込み,MRIによって診察では決してわからない臓器病変も検出するような,おとぎの国の病院が,患者と医師の両者の心の中に生まれる.

こうしていつ如何なる時でもそ,全ての検査データが即座に得られる環境でなければ診断ができないとの錯覚が醸成され,,いやしくも病院と名乗るのであればすべからくMRIが24時間撮影できる体制を整えるべきであるという思考停止が感染症のように広がった.患者ではなく,検査データや画像が答えを教えてくれるという幻覚妄想状態に一部の医者が陥ったのは,このような機序によってである.

答えは患者しか持っていないのに,その患者から発せられる音声(問診)と非言語性のメッセージ(行動観察・視診・身体診察)を受け取り,診断を教えてもらう.このような診断の土台抜きに空中楼閣を建造しようという大胆な試みへの素朴なアンチテーゼ.臨床推論の正体なんて,そんなものだと思っている.

臨床推論という言葉が生み出すリスク
臨床推論という言葉は,問診や診察を診断に生かす過程を明確に意識させる上で有用だろう.しかし,臨床が推論の連続であることを言語化して明示的に提示することによってむしろ増大するリスクもある.それが,正しい診断を当てようとする正解依存症である.診療の真のエンドポイントは患者さんの喜ぶ顔である.一方,正しい診断はあくまで代用エンドポイントに過ぎない.患者さんの喜ぶ顔と正しい診断が常に一致するとは限らない.典型的な例が2013年のNHK総合診療医DrGでの出来事である.この時,3人の研修医の提示した診断名は始めから終わりまで一貫していた.しかし,患者さんの命を奪う危険性については,私がヒントを与えるまで気づけなかった.

クイズなら正解を当てればそれで済むが,臨床はクイズではない.患者さんの命をクイズのネタにしてはならない.「正しい診断は何か?」としゃにむに前へ進む前に後ろと横を固めておかないと,とんでもない方向から流れ弾が飛んできて命を取られる.患者さんの喜ぶ顔を確実に手にするためには,まずは悲劇の可能性の芽を摘んでおくことだ.これが診断リスクの低減=負けない診断である.わかりやすく言うと,可能性の高い疾患のrule inよりも,先へ進む前に除外しておきたい疾患を診断の初期で除外する.

そのためには,
○これはと思う診断と患者さんから発せられるメッセージ(病歴・行動・診察所見)に矛盾する点はないか?
○その矛盾点を説明するような,「嫌な」病気はないか?
○埋めておくべき外堀に相当する疾患の除外は忘れていないか?:例えば頭痛の場合だったら,CTに写らない緊急性の高い病気(側頭動脈炎,緑内障),心窩部痛だったら下壁梗塞,糖尿病性ケトアシドーシスといったように

だから,教育する方も,この点を意識して臨む必要がある.特に自分だけは正解がわかっている場合にはなおさらである.自分の悩み・迷い・疑問という,大切な学習資源を忘れてしまっては,学生の学習を支援できるわけがない.

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