中腰で耐える「度胸」

以前、相談を受けた患者さんのその後について連絡を受けて感じたことです。(内容は一部改変)
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> 2年ほど前に上肢のしびれで診ていただいた 20代の女性は 結局 あの後 内服で多少良くなってからは 受診なく(なんどか 連絡をくれましたが)そのまま今年の春、地元の大学を卒業したので その後はわかりませんが たぶん 改善したのだと思います。(引用ここまで)
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私の場合、若い時だと、、こういう良性の経過が予想される患者さんでも、「悪い病気」を見逃したくなくて、始めから「攻めのワークアップ」をがんがんやって、空振りを繰り返していましたが、この歳になって今はひとまず対症的に対処しながら経過を見るようになりました。それはどうしてかなあと。

「中腰で耐える『度胸』」を身につけるためには、この「空振りの積み重ね」が必要なんじゃないかなあと。

ストライクを打ちに行くより、ボールを見極めて見逃す方がはるかに難しい技術です。ストライクゾーンは、ボールゾーンを認識することによって初めて形成される。

診断の「絞り込み」って、除外診断の積み重ねなんだけど、その「除外診断」って「度胸」が要る。でもその「度胸」って、どこかに言語化されているわけじゃない。そもそも、「除外診断には『度胸』が要る」なんて、どんな教科書にも書いてない。

「時間と戦う」という表現を聞くことがあるけれど,私自身は「時間と戦う」などと大それた事を一度たりとも考えたことはない.「戦う」というと必ず「勝ち負け」の話になる.でも「時間に勝つ」なんて,少なくとも診断の上では危険な考え方だ.時間を味方につけるとか,時間を利用するってことならわかるけど.

後医は名医ってことは,後で見る医者の方に時間が味方してくれたってこと.「中腰で耐える」ってことは,時間を味方にして自分が前医にも後医にもなりたいという「欲望」の現れ.ただし,その欲望を実現するためには,「度胸」が要る.

教育で伝える「知恵」って、こういう言語化されていない「こと」なのでしょう。そう言うと随分難しい「こと」のように感じるけれど、こういう日常診療を巡るささやかなやりとりの中にこそ、その知恵が生きている。(2015/12/10)

2016/10/16追記
中腰で耐える「度胸」については,上記の記事を書いた8年も前に,すでに,【座談会】 「治らない」時代を生き抜く医師の心得とは (週刊医学界新聞  第2755号 2007年11月5日)で論じられていたことに後で気づきました(下記引用参照).もちろん私が盗用したわけではありません.中腰で耐える「度胸」という概念が極めて普遍的な考え方だという何よりの証拠です.
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春日 「中腰で待つ」とは,現時点では答えが出ない,これ以上は差し当たってどうしようもない――そんな場合,とにかく「こだわり」や気まずさにとらわれずに済むところまでは事態に対処し,それから先は腹を括って「時に託す」といった状態をいいます。早い話が,「人事を尽くして天命を待つ」です。そうすれば,あとはもう神頼みであっても恥じる必要はありません。

 実際にやれることはすべてやって待つと,意外にうまく展開することを肌で感じるわけです。それはオカルトに近いのかもしれませんが,そういうことを実感できるようになるか否かで,医師としての生きやすさが違ってくるのだと思います。

宮崎 「人事を尽くす」と「天命を待つ」の間,そこを「中腰」で耐えるわけですが,その時には「度胸」という言葉が出てきますね。

春日 やれるだけやったという実感だけではなく,他人に相談したり,話したりして,「やっぱり,そうだね」と同業者から賛同を得られないと「度胸」は生まれてきませんよね。
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