アイヒマン誕生譚
人はそれぞれ物事を理解する順序や速度が違う。同じことを同じように説明しても、だれしもが同じことを同じように理解できるわけではない。だから人は、さまざまなものを理解していくために、自分なりの理解の仕方を見つけていかなければならない。
どうやってそれを見つけていけばよいか?特別な作業は必要ではない。実際に何かを理解する経験を繰り返すことで、人は次第に自分の知性の性質や本性を発見していくのである。なぜなら、「分かった」という実感は、自分にとって分かるとはどういうことなのかをその人に教えるからである。スピノザは理解という行為のこのような側面を指して「反省的認識」と呼んだ。認識が対象だけでなく、自分自身にも向かっている(反省的)からである。
だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ。
逆に、こうした過程の重要性を無視したとき、人は与えられた情報の単なる奴隷になってしまう。こうしなければならないからこうするということになってしまう。たとえば、数学の公式の内容や背景を理解せず、これに数字をあてはめればいいとだけ思っていたら、その人はその公式の奴隷である。そうなると、「分かった!」という感覚をいつまでたっても獲得できない。したがって、理解する術も、生きる術も得られない。ただ言われたことを言われたようにすることしかできなくなってしまう。
(國分功一郎 暇と退屈の倫理学 結論 スピノザと分かることの感覚 より抜粋。原典で傍点の部分は下線に。太字は池田が勝手にやった)
→根本 正一 普通のサラリーマンをユダヤ人虐殺に突き進ませた「組織悪」の正体 疎外を恐れる我々に、今なお宿る病理
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