「肝心な時に物を言うのは、結局は普段の行いだ」=peer reviewを意識する、そう口で言うのは簡単だ。でも誰でもできることじゃない。しばしばそのreviewer自身が自分をreviewerとして意識していないから、ましてや、reviewの対象となっている人間には、reviewerを意識することが極めて困難だ。僕みたいに若いときから好き放題やってきた人間にとっては、とっても怖い話だ。
常に「傍に」(たとえ距離は離れていても)いる厳格なreviewerの存在を、自分の行動の背景に組み込めるかどうか。それが、生まれながらにできる人、僕みたいに四十半ばを越えてからでないと、それも、日々意識しないとできない人、死ぬまで絶対できない人・・・
教授の椅子が人を育てている場合もある。それでも、教授の椅子に座って誰もが育つわけじゃなくて、却って品格が下がってしまう人の方の方が多いかもしれない。だから、教授の椅子の使い方も、腕の見せ所だ。どうすれば、人が動いてくれるか、自分が助けてもらえるかを知っている人は、いくつになっても伸びていく。もっとも、そういう人は、別に、教授の椅子に座らなくても伸びていくんだが。
中年の危機は、生物学的な加齢(というより、単なる時間経過指標)に自らが規定されてしまうという妄想に囚われることによって生じる。自分の才能は極めて限られた分野でしか発揮できない(専門志向)と自らを攻撃し、かつ、その分野では、もう学ぶことなどなくなった(自分はこれ以上伸びない)と、時間軸でも自分を攻撃する。加齢によって、自分の知識や技術が発達し、飽和点に達する=神になるなんてありえないことなのに。
加齢によって明らかになるのは、自分の弱点だ。その弱点をどうやって補強するか。その戦略を立てるのがとても楽しい。弱点は尽きることがないから、楽しみも尽きることがない。その楽しみを知れば、年をとるのが楽しくなる。
野球ってのは、ピッチャーとバッターの間だけで行われるのではない。グラウンドでプレーしている人間だけが野球という娯楽を成り立たせているのではない。時速150キロを超える球を投げる選手だけが投手の資格があるのではない。私だって、そりゃあ、昔はめちゃめちゃ球が速かった。先発完投で何百勝もした。でも、それだけだった。時速150キロを超える球を投げるだけで自分が凄いと思えたのは、若さの特権(&悲しさ)だ。四十を過ぎて、ましてや五十を超えて、二十代と同じパフォーマンスを発揮しようとは思わない。それよりももっと楽しいことがあるから。
もちろん、たとえを野球に限ることはない。宝塚の方が素敵かもしれない。キャリアを進むに連れて、いろいろな舞台の様々な役を経験していく。他の配役との関りはもちろん、衣装、振り付け、メークアップ、照明、大道具、小道具、脚本家、オーケストラボックス・・・・音楽学校の指導教官もいつも舞台を見ているよ。