アナログ性と不確実性

物理、数学、化学のように、はっきり答えの出る学問がある一方で,臨床医学のように、多くの面で決してはっきり答えの出ない学問がある。いや、学問というより、混沌とした現実と悪戦苦闘する技術とでも言おうか。

臨床医学に携わる人々の多くは、そのあいまいさをよく理解している。しかし、それ以外の人々は、権威、偉い人、専門家と見なす人々に,白黒をはっきりさせろとせまる。医学は,物理、数学、化学と同じ“理系”の学問なのだから,明快な答えが出るはずだと信じ込んでいる人々が何と多いことか.そういった人々がたどり着く結論はいつも明快である.糖尿病の患者は甘いものを食べてはいけない. 熱が高いときは解熱剤を投与する。精神疾患はストレスが原因である,等々.これらの誤解が井戸端会議にネタに留まっているうちはまだいい.問題は,デジタルな回答が具体的な行動に結びつく時だ.

自分に直接関係のある自分の職場の問題や、家庭の問題では、現実のアナログ性を十分心得ている人々も、不慣れな問題が、急に身近に迫ってくると、手っ取り早くデジタルな解決策を求めようとする。情報量が少なかったり、問題が複雑で手っ取り早い理解が困難だったりする場合はなおさらだ。例えば,“癌”という病名を聞いただけで,治療の選択肢を,キノコを使った特定の代替療法のみに限るか,あるいは死を選ぶかという二者択一の選択肢しかないというような思い込みがいい例だ.医者もこのようなデジタルな判断と無縁ではない.ひきこもりの原因は幼少時の心の傷であると決めつけたり,すべての発熱患者には非ステロイド系消炎鎮痛剤と抗菌剤を同時に処方したり,といった行動が,同種のデジタル判断に該当する.

現実世界には明快という名の青い鳥はいない。しかしデジタルな答えをもとに多くの人々が一斉に行動すると社会的なパニックがおきる。BSEパニック、ゼロリスク探求症候群は,世間の人々が,牛肉の忌避にゼロリスクを,牛丼に死を見た結果だった.そこには,限りなく透明に近い灰色の存在さえ許されなかった.

明快さは心地よい.正義の味方と悪人がきれいに分かれれば,勉強することや考えることから解放される.ただひたすら水戸黄門を見て拍手喝采していればよい.

当初はイレッサを魔法の新薬と称えた新聞が、その舌の根も乾かないうちに悪魔の薬と非難したのも、デジタルな答えしか受け入れられない、柔軟性を欠いた脳の持ち主にとっては当然だった。SNPによるテーラーメード医療を夢見るのも,アナログな現実からの逃避願望の結果だが,SNPで全てが解決するわけでもない.

病気になったばかりの患者や、病気になることを恐れる人々も、臨床医学に対してデジタルな答えを求めようとする。その象徴が魔法の新薬であり、みのもんたであり、週刊誌の名医ランキングである。

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